【日韓併合の真実】韓国に与えたもの

日韓併合で韓国に与えたモノ

韓国では七つのモノを日韓併合で奪われたといっていますが真実はおおきく異なります。ひとつづつみていきましょう。

一、「韓国国王を奪った」

 日本は李王家を日本の皇族の一員として迎え、併合時の純宗皇帝は李王となり、日本は李王家を手厚く保護した。

「李王家歳費」毎年百八十万円が計上。現在の価値で約二百億円になります。

朝鮮総督府『施政三十年史』(国立国会図書館蔵)

他の宮家の皇族費とは格段に差のある巨額を歳費にあてています。

また、梨本宮方子女王が李王家の王世子・李垠殿下に嫁がれ、終戦時、李垠殿下は密航してでも朝鮮に帰国しようとしたが、それを許さなかったのは、韓国初代大統領の李承晩です。

李王朝を復活させず、共和制国家をつくったのは韓国です。

日本の「朝鮮統治」は、植民地の王室を全て廃止していった欧米諸国の「植民地支配」とは根本的に違います。

二、「主権を奪った」

朝鮮に国家主権はなかった。

日本は、清の属国であった李氏朝鮮が、近代国家として独立し、欧米列強の侵略に対抗することを望んだ。

しかし、清はそれを認めなかったので日清戦争になったが、日本が勝利した。

清と結んだ講和条約【下関条約】を見れば、その時にようやく独立した事が判る。

第一条「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」

と朝鮮の独立が明確に謳われている。

要するに、朝鮮は日清戦争で日本が勝利したことにより、日本の属国になったと言えます。

三、「土地を奪った」

 一九七四年以来、韓国の国定教科書には「全国農地の四〇%を日本人に収奪された」と記載されていますが、大きな間違いです。

『朝鮮事情』(平凡社)

李朝末期にダレ神父が両班の暴君ぶりについて、

「両班は、いたるところで支配者か暴君のようにふるまっている。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、殆どの場合、支払なしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(現在の知事に相当)は一人もいない」

韓国では土地調査について「日本人が小高い丘に登ってあたりを見回し、土地を指さして手当り次第良田を奪った」と非難していますが、これは李氏朝鮮時代の話です。

李氏朝鮮時代は所有権の概念がなく、土地をめぐる争いが絶えなかった。

そこで朝鮮総督府は一九一〇年から八年かけ、近代的測量技術を使って土地調査を行いました。

「抑々土地調査は地税の負担を公平にし、地籍を明らかにして其の所有権を確立し、その売買譲渡を簡確実にして以て土地の改良及び利用を自由にし、かつその生産力を増進せしめんとするものである」朝鮮総督府『施政二十五年史』(国立国会図書館蔵)には目的がはっきり書いてあります。

調査の結果、二百七十万町歩と言われていた耕地が、実際には四百八十七万町歩にも上ることが明らかになり、耕地全体の四五%にも及ぶ土地が当時の貴族階級であった両班らによって隠匿されていたことがわかった。

 では、実際に朝鮮総督府が接収した李朝時代の国有地等はどれくらいであったかというと、耕地全体の3%でしかありませんでした。なお接収の過程で朝鮮人の私有地を奪った事実は全くありません。

1922年時点で朝鮮半島における国有地及び日本の個人、法人が保有していた土地は合わせて25万5千町歩、全耕地面積の6%にすぎません。

『朝鮮における内地人』朝鮮総督府、大正十三年発行

農民たちは自分の土地が測量され地籍に上がるのを見て、測量事業に積極的に協調しました。しかし中には一時の利益に目がくらみ祖先伝来の土地を売ろうとするものもいました。

一攫千金を夢見る日本人が大挙、朝鮮にやってきましたが、当時の寺内総督は、朝鮮の土地が買いたたかれては意味がないとし、朝鮮農家が日本人に土地を売るとの情報をつかむと憲兵を派遣し、日本人には売らないよう説得しています。そこまでして朝鮮総督府は朝鮮人の利益を守ろうとしていたのです。

四、「国語を奪った」

 韓国の国定中学校教科書には「我々の言葉を禁止し日本語だけを使うようにして、我々の歴史の教育も禁じた。ハングルで刊行された新聞も廃刊させ、我々の言葉と歴史に対する研究も禁止させた」と書いてあります。

そもそもハングルは十五世紀に李朝四代世宗が学者を集めて作らせたと言われていますが、当初より諺文として忌み嫌われ、公文書では一切使われません。イザベラ・バードも「諺文は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない」と記しています。

では、そのハングルを再発見したのはだれか?

日本人の福沢諭吉です。

「日本の漢字仮名まじり文同様、ハングルを駆使すれば難解な漢文を朝鮮語式に自由に読み下すことが可能となり、大衆啓発のために大いに役立つはずだ」

と考え、漢字ハングル混交文を提唱し、ハングル活字を私費で作りました。

朝鮮総督府は日本と朝鮮の学者を集めてハングルを近代的文字体系にまで高め「普通学校用諺文綴法」を決定して教科書に採用しました。さらにソウルとその近郊で話されている言葉を標準語と定め、学校教育を通し全土にこれを広めました。現在の韓国語は、このときに成立したのです。

 1920年には総督府によって初めて本格的朝鮮語辞典が完成し刊行され、

1924年には京城帝国大学に朝鮮語・朝鮮文学の口座が開設されました。半島における日本語の普及にも力を入れましたが、これは共通語の普及が目的であり、朝鮮語廃止というものではありません。

もしも、日本が朝鮮を植民地と考えていたのなら日本語など教えないほうが支配しやすかったはずです。

戦争の激化によって朝鮮語教育に力を入れる余裕がなくなったため、1941年からは朝鮮語の科目が廃止されましたが、科目が廃止したからと言って、朝鮮語の使用は禁止出来ません。

なぜなら、当時の日本人は半島の人口の2%程度であり、禁止など不可能です。朝鮮語の新聞も、京城では終戦まで二紙が発行されていました。

むしろ朝鮮の知識人の中に朝鮮語廃止と日本語常用を唱える人々が大勢いましたが、南次郎総督は「朝鮮語を廃止するのはよくない。国語(日本語)普及運動は朝鮮語廃止運動に誤解されることがあるくらいであるから、それはできない相談である」と拒否した経緯があります(杉本幹夫『「植民地朝鮮」の研究』)。

それに、日本が朝鮮語を奪ったのなら、当時の朝鮮人は全員日本語を話せたはずですが、『朝鮮総督府施政年報 昭和十六年版』には日本語を「やや解しうるもの」「普通会話に差し支えなき者」合わせて約390万人、当時の朝鮮の人口の16%に過ぎないと記載されています。

同資料には「内地人職員に対する朝鮮語の奨励」なる項目があり、むしろ日本人官吏が朝鮮語を必死でまなんでいた。

 近代においては日本が西洋の用語を日本語に翻訳して新たな漢語を創造したのですが、朝鮮の人々は日本製の漢語を借用して今日の韓国語を形成しました。韓国語の名詞の七〇%程度が漢語であり、政治、経済、科学、哲学、医学分野はほぼ一〇〇%が日本語の借用です。「社長、副社長、専務、常務、部長、課長、係長」も、「株式会社」「合弁会社」「水素」「酸素」「電気」「手術」もみんな日本語の韓国読みです。日本は統治期間中に朝鮮語の標準語を定め、近代社会に必要な単語を提供しました。奪うどころか、まったく逆のことをやっているのです。

日本は朝鮮半島から言葉を奪ったのではなく、近代的な思考をするための道具として、和製漢語を与えています。

日帝残渣を取り除く!と威勢のよい事を言っていますが、日本の文化なしでは李朝時代に戻ってしまうのです。

五、「姓名を奪った」

 1939年に朝鮮総督は朝鮮戸籍法を改正し、朝鮮人が日本名を名乗ることを許しました。「創氏改名」と呼ばれるこの政策によって朝鮮人の姓名を奪われ、無理やり日本人に同化させられたとして韓国は日本を非難します。しかし、朝鮮人が日本名を名乗ることで日本人が何か得をしたでしょうか。実は、日韓併合直後の1911年に朝鮮総督府は総督府令第一二四号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を施行し、朝鮮人が日本式姓名を名乗ることを禁止していたのです。朝鮮の伝統風俗を尊重すると同時に、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなることで発生するであろう不都合に配慮したものでした。

2003年5月に当時自民党政調会長だった麻生太郎氏は「創氏改名は、朝鮮の人たちが名字をくれと言ったのがそもそもの始まりだ」と発言し、韓国側から非難され、「言葉が足りなかったことをお詫びする」と釈明(発言自体は取り消さなかった)したことがあった。

これが全てです。朝鮮人だとわかると、中国から仕事をもらえないといって、併合したのだから、日本名を名乗ってはいけないというのは間違いだとの声が大きくなり「許可」したのです。

六、「命を奪った」

 日清戦争の原因となった東学党の乱から1945年までの50年間、日韓は戦争状態にあり、この期間中に残虐な日本軍は朝鮮人数十万人を虐殺したと韓国では教えています。

これが世界中で韓国だけに存在する「日韓五十年戦争」論です。この主張は、朴殷植が1920年に書いた『朝鮮独立運動之血史』という本がベースになっています。朴は上海臨時政府の二代目〝大統領〟になった人物であり、この本は日本を攻撃するために悪意をもって著述したものです。日本の官憲や軍隊の蛮行を書き連ね、偏見と事実歪曲、数字の誇張に満ち溢れたものですが、韓国ではこれが史実として教えられています。

「東学党は、政府軍や日清軍と交戦すること9カ月以上にも及んだ。死者30万人を数え、民族史の上に古今未曾有の惨状を極めた」とありますが、日本軍の本隊が朝鮮半島に上陸したのは東学党の乱が朝鮮政府軍や清国軍隊によって鎮圧されたあとで、それまでは二個小隊しかいません。

「わが民衆を日露戦争の軍用務労働者として徴用しはじめ、これを拒否したものはロシアの間諜として罪におとしいれ、あるいは拘束し、あるいは拷問を加え、甚だしくは斬殺した。」というのもあります。しかし日本で国民徴用令が制定されたのは1939年であり、1904年に他国の国民を徴用できるはずがありません。

『朝鮮独立運動血史』には、韓国の民族独立運動である「3.1運動」を日本が残虐な手段で弾圧し、多くの朝鮮人を虐殺したと韓国は主張しています。

1919年3月1日、京城(ソウル)の公園に宗教家33人が集まり、非暴力・無抵抗主義を標榜して「万歳デモ」に移ったのが始まりですが、これが瞬く間に全国的暴動に発展し、地方では農民たちが武装して村役場、警察・憲兵事務所、富裕地主等を襲撃する凶悪な行動へ転化しました。在朝鮮日本人に「日本へ帰れ」と投石して脅迫した事実はテロそのものであり、決して一般大衆から支持されたものではなかったのです。

日本官憲が各地で悪逆非道な弾圧を行ったと記されていますが、裏付けのない伝聞にすぎません。

食料自給率の向上

李朝末期における農民の生活は悲惨で、毎年多数の餓死者が出ていました。この改善が朝鮮総督府の最大の目標であり、1926年に「朝鮮産米増殖計画」が施行されました。併合当初、朝鮮の水田は80%が天水に依存していましたが、この計画により70%以上が天水依存から脱し、その他の改良と相まって朝鮮農業は飛躍的に発展しました。1910年に朝鮮全土で約1千万石程度だった米の生産高は1930年代には2千万石を越え、大豆と雑穀の生産高も併合時より60%増えました。1931年に朝鮮総督となった宇垣一成は「朝鮮農山漁村振興運動」を展開し、朝鮮農民の意識を近代化に向けて大きく前進させました。1933年から38年にかけての農家収入は2倍に増えています。

医学の発展

李氏朝鮮時代は劣悪な衛生環境のなかで10万人以上の死者を出す疫病が流行していました。西洋医学が普及しておらず、東洋医学のみに頼る状態で、本格的に近代医療システムの導入が始まったのは併合後、朝鮮総督府が改善に取り組んでからです。京城大学附属病院、各道の慈恵病院が作られ、1910年には120万人に種痘が施されました。このような日本の努力の結果、朝鮮人の平均寿命は、1910年の25歳から1945年には45歳まで伸びました。日本が朝鮮人の寿命を伸ばし、命を救ったのが歴史的事実です。

七、「資源を奪った」

 韓国の中学校歴史教科書には「日帝は金、銀、タングステン、石炭など産業に必要な地下資源を略奪した」と書いてありますが、実際には金、銀、タングステンなどは日本の会社が膨大な開発費を投じながら、結局大赤字でした。

東南アジアから輸入したほうが安上がりだったのです。

日本は逆に税金をつぎ込み、産業を育成しました。大韓帝国が1906年に初めて作成した国家予算は748万円にすぎなかったのに対し、日本は1907年から1910年まで毎年2000万円から3000万円を補助しています。日本の国家予算の20%を越えたこともあります。併合後も毎年2000万円前後の資金を持ち出し、昭和14年になっても日本からの補充金と公債を合わせると全予算額の四分の一を占めていました。日本統治期間を通して日本政府が朝鮮半島につぎ込んだ金額は、累計で20億7829万円、当時の1円が平均して現在の30000円とすると63兆円という莫大な数字になります。また、大韓帝国時代から日本は鉄道建設に力を注ぎ、その総経費は現在の価値にして10兆円以上になります。民間資金もダム建設に投入され、有名な水豊ダムだけでもその額は現在の価値で3兆円近いものです。これによって生み出された豊富な電力を利用するために日本の多くの大企業が朝鮮北部に投資しました。それによって朝鮮人の雇用を創出するとともに、付加価値の高い製品を日本へ移出することで朝鮮経済を豊かにしたのです。

奪ったのではなく与えたのです。

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